マナスル
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1952年 日本山岳会マナスル踏査隊, [1952年秋〜12月.]
シリーズ
資料番号: AACK MIXED 2013/1 / 52NEP
範囲と内容
マナスル山域踏査と登路偵察を目的とした遠征に関する資料.
日本山岳会はAACKからマナスル登山許可証の委譲を受けてヒマラヤ委員会を発足させ、マナスル登山に取り組んだ。1953年本隊のために前年秋に偵察隊が派遣されることになり、今西錦司のもとに隊員が選任された。先遣隊は9月なかばに首都カトマンズを発し、マルシャンディ河渓谷をさかのぼり、アンナプルナⅣ峰北面とマナスルの西面を探った. ついでラルキャ峠を越えて東面ブリ・ガンダキ河渓谷にまわる. サマ部落に流れ下るマナスル氷河を試登して、登頂はこのルートにより可能との判断を得て、12月なかばにカトマンズに帰着した.
[関係者名] 今西錦司(隊長), 田口二郎, 高木正孝, 中尾佐助, 林 一彦, 竹節作太(毎日新聞), 日本山岳会ヒマラヤ委員会.
日付:
[1952年秋〜12月.]
1952年 西堀栄三郎のインド・ネパール訪問, [1951年 年末〜3月.]
シリーズ
資料番号: AACK MIXED 2013/1 / 52NIS
範囲と内容
ヒマラヤ予備調査とマナスル峰登路探索を目的とした遠征に関する資料. 京都大学生物誌研究会(FF)は、インド科学会議に木原均が招待された機会をとらえ51年年末西堀栄三郎を日本代表団随行員として派遣した. 西堀はカルカッタとニューデリーでJ.ネルー首相をはじめインド政府高官に面会、日印合同ヒマラヤ学術調査隊計画を説明して協力を要請したが、はかばかしい結果を得ることはできなかった. 次いで、毎日新聞社運動部竹節作太氏からの紹介状をネパール政府スポーツ担当大臣K.B.ヴァルマ氏宛手紙に同封、訪問希望を述べ協力を要請した. 2年2月12日パトナから空路首都カトマンズに入ることに成功する. トリ・プフーバン国王、コイララ首相、カイザー・ラナ国防相などに面会、未踏峰マナスル登山の許可を懇請、好意的対応を受けて、英文登山計画書を作成して提出、同月20日カルカッタに出た. マナスルの写真や地図の入手に奔走、ヒマラヤンクラブ関係者からヨーロッパ各国のヒマラヤ遠征計画の情報を集めるなどして、3月なかばに帰国した....
日付:
[1951年 年末〜3月.]
1953年 日本山岳会マナスル登山隊, [1953年3月~6月.], [1953-03-01/1953-06-30.]
シリーズ
資料番号: AACK MIXED 2013/1 / 53MAN
範囲と内容
未踏峰マナスルの初登頂およびネパール学術調査を目的とした遠征に関する資料.
本隊は7750mに到達したが撤退.科学班は生物学・農学・地理学・人類学の調査をおこなった.
[関係者名] 三田幸夫(隊長), 加藤泰安(登山隊), 中尾佐助(科学班), 川喜田二郎(化学班), 日本山岳会ヒマラヤ委員会.
日付:
[1953年3月~6月.]; [1953-03-01/1953-06-30.]
1956年 日本山岳会マナスル登山隊, [1956年3月〜5月.]
シリーズ
資料番号: AACK MIXED 2013/1 / 56MAN
範囲と内容
ネパールヒマラヤ未踏峰マナスルの登頂を目的とした遠征に関する資料. 1953年の第1次隊失敗のあと、54年には第2次隊が、ふもとのサマ部落住民が聖山を汚したと反対して目標変更を迫り、ガネッシュヒマールに転進したあとを受けて、日本山岳会は1956年槙有恒隊長以下12名の第3次登山隊をマナスル(8163m)に送った。AACKからはただひとり今西壽雄が参加した。シェルパはサーダーのガルツェン・ノルブ以下20人であった。3月29日BC建設、以後順調にキャンプをのばし、5月9日7800mのCⅥから、第1次登頂隊今西とガルツェンがマナスル初登頂に成功した。11日には加藤喜一郎と日下田実が第2登で続いた。ちなみに、前年55年5月に本会会員西堀栄三郎(日本山岳会評議員)は成瀬岩雄(日本山岳会常務理事)とともにカトマンズにおもむき、サマ問題の解決のためにネパール政府と折衝し、了解を得ている。 [関係者名] 槇有恒(62歳), 小原勝郎(43歳), 今西壽雄(41歳), 辰沼広吉(39歳), 依田孝喜(38歳), 千谷壮之助(38歳),...
日付:
[1956年3月〜5月.]